ただただ思ったことを上手く伝える練習

説明責任を求める、はどこから来ているのか。

 説明責任を果たしてほしい。よく聞きます。確かに、知らないことを知りたいという欲望は自分にもありますし、税金を使って決定するものに関して、致命的な欠陥があれば、それに対して説明をしてもらいたいと思います。

 

 ところで、その責任を果たしてもらえたら、どうするのでしょうか。どうしたいのでしょうか。納得する?、文句を言う?、知識を得たから、スッキリする?

 システムとして見たときには、何かのインプット(刺激)を受けると、何かアウトプット(反応)を出力するわけです。そう考えたときに、説明責任を果たしていただけたとして、受けた側として、何を出力するのかまでも視野に入れて考えてもいいのではないかと思います。

 

 株式会社であれば、経営側が説明責任を果たせば、投資側が株式を購入する可能性があります。そのため、経営側は説明責任を果たすだけの価値が生まれています。順番が逆になるパターンとして、お金を貸している側からすれば、すでに価値を提供しているのだから、借使用用途を聞き、答えてもらう義務が借りている側にはあるだろうと考えます。

 

 一方で、ファンでもない、何でもない人が、芸能人や一般人に説明責任を求めている構図は、説明を果たす側からすると、なんの利点があるのでしょう。誠実であることが伝われば新たなファン獲得などもあるかもしれません。しかし、大抵の場合には、本質的にはその人には興味もなく、ただただ知りたいだけで求めているだけなんじゃないかと個人的には思います。もしも、私が説明責任を持った側だとしても、そのような方々に説明をする意味はないだろうと考えると思います。

 

 そのような構図が政治の世界でも起きてしまっているような気がします。説明責任を果たす側からすると、果たそうが果たすまいが結果が変わらない。と思っているのかもしれません。順番が逆になっているパターンだとして、借りている側が義務を持っているという認識がなければなりません。さすがに税金の使用用途は義務があるだろうと納税者は思いますが、税金を使用する側がそう認識を持っていないのかもしれません。

 また、政治に対して説明を求める側は、そういったロジックで求めているでしょうか。また、求める側も同じレベルの説明責任を果たせているでしょうか。ただの揚げ足取りを狙っているだけであれば、当然ながら説明してくれないでしょう。

 

 説明責任を求めるのであれば、「国民が求めている。」とか「ファンが求めている。」だけではなく、もう少し知性を持って、未来を見越した求め方をしていただくことを個人的には求めています。