ただただ思ったことを上手く伝える練習

生まれ持った差に対する捉え方

 親ガチャという言葉があることを知りました。子どもたちが触れているゲームを使って、自分の置かれている現状を嘆くにはよく捉えているものだと思います。

 昔は社会全体で子供を育てていたという感覚で考えている方もいるかも知れませんし、実際にそういう体験をされた方もいるでしょうが、家族構成が大きいほうが、両親だけではなく、その祖父母とその関係性までもが、ガチャの要素に入ると考えると、より差が顕在化しやすかったのではないかと思います。ただ、そういう人の声まで拾える情報社会じゃなかっただけではないかと。

 個人的には、平等に与えられるべきなのは、人が人らしく生きる最低限ラインまでで、それ以上を求めるのは今の社会構造では無理なんじゃないかなと思っていますし、すでに、それで生きてきた自分としても諦めてしまっているのかもしれません。例えば、モナリザが好きだから言って、ルーブル美術館で自由に本物を見るには、生まれもった時点での差(住んでいる場所、金銭、両親の理解などなど)が関わらざるを得ないと思っています。それまで平等には与えられないでしょう。なので、それなりに不平等な状況を受け入れて、乗り越えて行く必要があると思っています。例えばリモートで見れるようにするとか、自力で同じものを書く。とか。

 そして、乗り越えたり、うまく避けたり、代替を編み出したりするからこそ、生物学的進化から社会学的進化のレールに乗り換えられるような人類の発展つながったものだと思っています。

 スマホのガチャなら、無課金でもある程度レアが手に入るような仕組みはありますし、うまく立ち回って効率的に動けば、別のいいガチャを引くタイミングが出てくるかもしれないわけです。逆に、序盤のガチャのキャラだけを育てて適当にやっていると、手詰まりな状況になったりもするわけです。

 そもそも人生は、無課金に人権がないようなゲームではないでしょう。私がいる日本は割と平等に勉強ができて、学歴で生きていくことができる社会なので、それなりに逆転のガチャチャンスが控えているような気がしなくもないです。

 自分の置かれている現状を「嘆く」にはよく捉えているものだと改めて思います。