ただただ思ったことを上手く伝える練習

持続可能性は退化か進化か

 しばらく仕事が忙しく書くことができませんでした。

 

 短くても書いたほうがいいのは分かっているのですが、締切が同じ案件が複数出てくると、両方とも手が進まなくなってしまいます。片方をやっていると、片方が気になるの繰り返し。。

 今も、なかなかに忙しい状況ではありますが、流石に続けないと成長ができなくなるのではないかという危機感から重い腰を上げて書きます。

 結局、自分のためにやっていますからね。

 

 日本ではSDGsが浸透し、テレビでも家族との会話でも、持続可能性をなんとなく考えるような機会も増えてきています。

 そもそも、地球環境の持続可能性なのか、生物の多様性なども含めた持続可能性なのか、人類の持続可能性なのか、持続する対象が各人の考えに任されているような印象もあります。人類が生存し続けるために、必要な地球環境と、生物の多様性を持続させたいのかな?全部か。。

 

 そんな中でも、地球環境や生物の多様性など人類が今まで破壊してきたものに対する持続可能性の言及は、人類の技術・文明レベルを下げるべきという考えで話される場合があるように感じます。

 

 個人的には、技術レベルを下げる方向には考えるべきではないし、そんなことにはならないと考えています。

 テクノロジー自体は、その時代に最も強い欲求に紐づいて進化してきたものだと理解しています。その良し悪しに関わらず。そもそも良し悪しも今の時代の倫理観や考え方が基準ですが。

 例えば、帝国主義のために軍事力と紐づいて進化しました。その後は資本主義のお金を生み出すための手段として、人間の物欲と紐づいて進化しました。今もお金がゴールになっている気はしますが、それが物欲以外のもの(時間や精神的なもの)になってきている印象があります。

 あくまで人の有りたい世界になるための手段として使用されているので、もしも持続可能な世界がありたい姿であれば、技術を捨てるのではなく、それを積極的に活用してたどり着くほうが早く、幸せになるのではないかと考えます。

その結果不要だとして、今不要と判断できるのか

 大人になってみて、引き算すら使わなくなりました。

 なので、引き算の勉強はいりません。

 

 今も、日常生活の中で、使っていない方はたしかに多いでしょう。

 繰り下がりがあったら心配なのでスマホの電卓を呼び出すくらいであれば、最初っから使わなかったらいいのです。

 

 そもそも引き算という概念をどこで使うべきかは引き算を知らないとだめでしょうという意見もありますが、ものがほしいなら、それを持っていって、タッチするだけで手に入るような生活になれば、引き算の概念すら入ることがありません。

 

 学校での勉強の価値として、その考え方やアプローチが重要。だったり、そもそも学校でのシステムは社会に当てはめやすくするための整形だったりという意見があるかなという認識です。

 

 確かに、複数の人の意見をまとめ上げるような作業は、論理的な思考ができる必要があり、汎化して、定量的になることで正解までが何度やっても同じになる数学は、論理的な思考を育てるのに効率の良い手段であると理解しています。

 こうなったらこうなるの順番が理解できない人が、これをしたらどうなるかも考えられずに短絡的な思考に陥りがちなのかなと思います。だからこそ経済が成り立っているのかもしれませんが。

 

 とはいえ、結果として使わないもので学習するくらいであれば、最初っからそういったことを実践で経験してマスターすることも手段としては考えられるかもしれません。

 今は、いろんなツールで学習できますので、数学ではなくても論理的思考をマスターする手段は提供されているんだろうと思います。

 

 結局のところ、日常生活をおくる上では不要といえるのです。

 

 

 逆にいうと、日常生活を作る側、例えばプログラムを作ったり、なにか仕組みを作ったりする上では、基礎学力が必要になると考えます。税金の仕組み、給料の配分などなど。

 

 将来、何になるのか決めていない、あるいは、分からない子供に対して、親の無知によるエゴ、あるいは、まだ短絡的な子供わがままに乗っかって、人生の選択肢を減らしてしまうのは、あまり良い考えとは思えません

 

 引き算すら取り上げて、効率化した結果、何をするのか。

 古い人間の私には想像が付かないです。

 

鶏卵問題という簡単な図式化

 よく、どちらが先に起こったのかなどを議論するときの図式として鶏と卵のどちらが先かという図式を使うことが多いと思います。

 

 情報がないと、未来は予測できない。未来予測がないと、情報は取れない。など、2つの異なる部署で、どちらが先に活動の引き金を引くのかで、鶏と卵の図式で表すことがあります。(最近ありました)

 

 結局のところ、こういったお見合い状態はお互いの仮案を突き合わせながら徐々に洗練していくのが妥当な流れになる構図だったり、あるいはどちらかが完全に仮説だけで進めるような状況になるのが良くあるパターンかと思います。

 

 この図式化はイメージがわかりやすいので、そもそも論を議論する前段階で登場しがちで、そんなお見合い状態をしていても意味がないのに、そうだね~と同意を得がちな印象です。

 

 ふと思ったのは、抑止力の掛け合いになっている様相の銃社会がそのようになっているのではないかと感じたりしています。

 

 自衛のために銃を用意しているというスタンスで話が展開されることが多いですが、規制の仕方は如何ようにもできるはずです。

 そもそも、そういった根本的な議論の前に鶏卵問題だと簡単な図式化をしてしまって、細かい議論が展開されないようにしがちではないかと思います。

 とはいえ、現実問題を見るものとしては、そもそも論を話したところで何も解決につながらないパターンだったりしますが。

 

 結局、問題は簡単な図式化をして理解を深めようとしがちです。しかし、本質的な解決を考える上では、図式化にこだわらず、いろんな角度から見て、考えを進めたほうがいいと感じます。

メタバースの言葉から連想するイメージ言語化

 メタバースという言葉だけが独り歩きして、実際どうなるのかがなかなか見えづらい状況にあるような印象があります。

 自分なりに、どういうイメージのものになるのか、言語化してみようと思います

 

 ユニバース、メタバースマルチバース、、

 不勉強のためか、宇宙、仮想空間、複数の平行世界(マーベルのせい)という感覚で捉えています。

 しかし、後ろのバースの接頭語として ユニ、メタ、マルチ が付いていると考えると

 

  ユニ:単一の

  メタ:高次の

  マルチ:複数の

 

ユニバースが世界なので、

  今いる単一の世界

  高次の世界

  複数の世界

といったところでしょうか。

 

 

高次の世界として、どうして仮想空間やゲーム環境をメタバースと呼ぶのでしょう。

 

マルチバースの場合、ユニバースにいる自分が複数体存在しているような状況をイメージします(マーベルのせい)。

 

一方でメタバースはユニバースにいる自分が、別の単一空間(ゲーム)に投影されているようなイメージに感じます。

 

自分自身が特定の関数に基づいて別の空間に投影されているような計算式でメタバースにいる自分は表現できるんですかね。

そう考えると別空間に投影する関数が1:1対応じゃなくてもいい気もするので、それも面白いアイデアになりそうです。例えば、とある仮想空間ではとある人間の右手でしかない自分とか。。そんな世界の場合には個人の定義も考え直す必要がありそうですね。

 そのメタバースに人は100人と限られて、ユニバースの人が入ると順番に100人のうちの体のどこかに投影される。突然、右腕が別の意識を持ったものに変わる世界(寄生獣ですね)

 

 ユニバースにいる自分が、Fortniteをしながら、zepetにログインしていたら、マルチバース状態と呼べるのかもしれません。

職業の期待と個人の特性

スポーツの審判が感情むき出しになって選手に突っかかっている件について考えてみました。

 

けしからんといったり、多少は気持ちがわかるであったり、わかってあげようだったり様々な意見はあるかと思います。

 

職業上の期待される役割としてそれを正しく満たしているかどうかの観点であれば、当然ながらやってはいけない行動ではないかと考えます。

仲良くやっていくべきとは思っていないですが、敵と味方に分かれて対立関係にあるものの間に立つものなので、両方に対して好まれる対応はできません。

普通にやっていれば両方から嫌われるでしょうし、うまく行って、適切な距離感で正しい判断をすることで、信頼されるくらいが落とし所になるのではないかと思います。

 

気持ちはわかるという意見は、例えば自分がその立場に置かれたときに同様の対応をする可能性があるという考えから来ていると予想します。

意見としては分かりますが、論点としてはどうなのかなと感じました。

もしも自分だったらどうする?と言われても、その職業訓練がどんなものなのかも分かりませんし、もしもその職業になるとして、それに合わせて自分の意識を変革しなければならないと思います。

理解が足りないという断じ方をされる可能性もありますが、流石にあの職業でアンガーマネジメントの勉強をしていないなんてことはないでしょう。

 

最後にわかってあげようみたいな意見について。

職業としての期待を無視しているなら仕方がないです。優しさを出していますが、改善を諦めていて、失格の烙印を押した状態になっているような気がします。

当人が悪いと言っているわけではなく、こういったことには組織構造や文化的な欠陥が隠れているパターンだと予想します。再発防止には組織構造の改善や文化を変えるような教育手段が改善策として提案されるべきです。

 

問題点に対して、寄り添っているだけでは、改善策もなく放置しているのと同義になるのではないでしょうか。

短絡的な考えと多面的な考察による考え

 国内の死亡者が21年度は増加したとのことで、その原因としてワクチン接種が上がっていました。とは言え、情報元も定かではないですし、明らかに短絡的な考えだと思います。

 一方で、コロナウィルスでの死亡者数自体は日頃のニュースにあるように、国全体の死亡要因と比較すれば少ないことは明らかですが、一方でちょうどワクチン接種が開始した時点での増加はどのような要因があると考えるかを考えてみたいと思います。

 

 考察1:人口動態的にたまたま

 毎年多少の増減があり、20年度がたまたま少なく、21年度がたまたま多かった。

 おそらく日本の人口ピラミッドからして、死亡者は増加のトレンドとなると思いますので、増えたこと自体に驚く必要はないように思います。

 

 考察2:そもそも情報が嘘

 これは見ていないのであまり言及しません。

 総務省とかがちゃんと情報を出しているような気がします。陰謀論として国の出す情報が嘘という話もありますが、逆にだとして、それ以上に信憑性がある情報とは何なのかまで考えるべきでしょう。

 医者が信用できない人が謎の占い師を信頼することはよくある話ですが。

 

 考察3:病院逼迫の影響

 まともそうに感じる考察ではありますが、国内のような巨大なレベルでそうなのかは微妙なところです。

 単純に病床の逼迫による手術の後回しだけではないでしょう。そもそも危険な人がいればそれなりの医療は適用すると思いますし。

 そういったハード面だけではなく、病院全体の士気のようなソフト面も影響するような気もします。

 

 考察4:制限のある生活の影響

 コロナ禍の抑うつ的な状況は病院だけではなく、一般の人にも影響していると考えるのが妥当でしょう。最初の数年は耐えられるが、それ以上になってくると流石に精神的なダメージが強くなってくる可能性があるかもしれません。

 戦時下など過去の歴史でも、国レベルで大きなストレスに陥ったときには、直接的な理由以外でも生命に影響を及ぼしていると考えます。そして、その抑うつの状況によって影響が出る速さは異なることも容易に想像できます。(戦争なら1ヶ月もすれば辛いでしょうし、今のような娯楽がある程度許された状況下であれば多少は持つかもしれません)当然、人によって異なるでしょうけど。

 また、ストレスだけではなく運動不足による体力の低下も、中長期的に見たときの影響として考えられるかもしれません。

 

 ぱっと30minほどでこのくらいは思いつくので、国内レベルの統計に対して短絡的な考察はせずに多面的なことを考えたほうがいいかなと思います。

SDGsは余裕の現れなんでしょうね。

 燃費が悪い、というかそんな考えもないでしょう。戦闘機には。

 

 戦争のシーンを見ていると、プラスチックバッグを一生懸命節約したり、ペットボトルのラベルを剥がしたり、ゴミを分別したりしている世界観とかなりの違いを感じます。

 

 守るべきものの優先順位は自分にあり、そこから家族、親族、民族、国家などなど対象が広がるイメージがあります。それは守りやすさからきているかもしれません。当然ながらその上下関係は人によって違うでしょう。自分よりも国家を優先するのも、人類を優先するのもあると思います。

 

 そう考えると地球まで守る対象にするには、相当に力に余裕がある状況下にあると思えます。

 余裕があるからついでに守ろうと考えている時点で地球人としては、不足しているかもしれません。

 

 地球のほうが優先順位の高い守るべき対象となる人が多数になると、戦争も様子が変わるかもしれませんね。棍棒に戻るのかしら。

 

 あるいは、地球を優先している人はその瞬間に地球からなくなっているかもしれません。